鉄道文化むらについて

INFORMATION

旧碓氷線の歴史を伝え、
小さなお子様から鉄道ファンまで楽しめる、
鉄道テーマパーク

明治26年(1893年)~日本初のアプト式

アプト式により悲願の「横川―軽井沢間」の鉄道が開通

古くから交通の要衝として知られてきた碓氷峠。江戸時代には、箱根と並んで最も重要な関所とされた碓氷の関があり、その跡地は群馬県指定文化財になっています。その碓氷峠に鉄道を敷設する計画が持ち上がったのは、明治時代初めのことです。当初は、東京と京都を結ぶ幹線鉄道のルートのひとつとして検討されましたが、難工事になることが予想されることから断念されました。

しかし、太平洋側と日本海側を結ぶ交通の要衝であり、明治20年代に入ると、再度鉄道を引く計画が持ち上がります。スイッチバック式やループ線などを設ける案も検討されましたが地形的に対処できず、ドイツのハルツ山鉄道を参考にアプト式を取り入れることで難題をクリアしました。そして明治26年(1893年)、トンネル数26、レンガ造りの橋梁18を要する難工事の末、悲願の横川―軽井沢間が開通しました。

最大66.7パーミル、標高差553mの急勾配を走ることになったのは、ドイツから輸入したアプト式蒸気機関車3900形で、横川―軽井沢間を約80分で結びました。その後、3920形や国産の3980形が導入されましたが、最高時速9.6km、1日24往復、1列車10両(客車)が限界で、トンネルの多さから煤煙対策も問題になりました。

  • ■傾斜との戦いを物語る当時の資料

  • ■「白鳥号」を牽引する、ED42。

明治45年(1912年)~日本初の幹線電化

輸送力や煤煙の解決のため、日本初の幹線電化へ

苦心の末に開通にこぎ着けた碓氷線でしたが、しばらくとすると輸送力や煤煙の問題が大きくクローズアップされるようになりました。そこで、明治40年代に入ると、輸送力のアップや安全性の面から電気機関車の導入を計画。当時の電力事情を考え、横川火力発電所を新設するとともに、碓氷線の両端にあたる丸山と矢ヶ崎の2カ所に変電所を設けることで明治45年(1912年)、日本初の幹線電化区間となりました。当初はドイツから輸入した電気機関車EC40形が走っていましたが、輸入した機関車を参考に国産を開発。ED42型(当文化むらで動態保存)等が走行し、碓氷峠を49分で結べるようになりました。

しかし、その後の日本経済の発展で、これでも輸送力が限界に達するようになります。昭和31年(1956年)には、勾配の緩い新線の建設が計画されましたが、多大な建設費がかかることから、碓氷線を複線化して、さらにアプト式から粘着運転方式にすることで輸送力の改善を図ることになりました。そして昭和41年(1966年)には、複線化が完了。碓氷峠専用の補助機関車(補機)、EF63形電気機関車や、信越本線用本務機のEF62形電気機関車により、横川-軽井沢間の所要時間は登り17分、降り24分と大幅に短縮されることになりました。

  • ■横川機関区にてEF63-1とED42-10

  • ■特急あさまとEF63形電気機関車

平成10年9月~現在文化むらの役割

碓氷線の歴史を見て触れて体験できる施設

輸送力のアップにむけ数々の電気機関車が開発されてきた碓氷線ですが、どうしても輸送力に限界があることから、貨物輸送は徐々に篠ノ井線や中央本線、上越線経由となり、昭和59年(1984年)貨物列車が廃止になりました。そして、平成9年(1997年)には長野新幹線が開通。路線を維持するだけの旅客数が見込めないことや維持に多大な費用がかかることから廃線となりました。

こうして104年の歴史に幕を下ろした碓氷線ですが、その歩みのなかで刻んできた歴史的価値は非常に大きなものがあります。国の重要文化財になっている旧丸山変電所や碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)はもちろんのこと、鉄道史に残るED42形電気機関車やEF63形電気機関車等は、後世に受け継ぐべき貴重な文化遺産です。そこで、旧松井田町やJR東日本の協力を得て、この「碓氷鉄道文化むら」を開村いたしました。

園内では、碓氷線の歴史を伝える鉄道資料館を開設しているほか、碓氷線で活躍した各種電気機関車や特急の「あさま号」を展示。さらに、EF63形電気機関車の体験運転もできる施設になっています。ぜひ「碓氷鉄道文化むら」で、1世紀を超える鉄道の歴史を、見て触れて体験してください。